| 年号 |
セイカグループの歴史 |
時代背景 |
| 1966 |
硬化剤ビスアミンの製造を開始
この頃までの当社の主要製品は、創業製品となった染・顔料中間体アニリンソルト、ファーストブルーBベース、初の国産品となった顔料中間体のジクロジンH、同じく顔料中間体のジクロルジアニシジン、高級顔料中間体のテトラジンなどだった。
これらの染・顔料中間体に続くものとして1966(昭和41)年からポリウレタンやエポキシ樹脂向けの硬化剤の商業生産を開始し、ビスアミンという商品名で樹脂硬化剤市場に参入した。 |
ビスアミン |
わが国の総人口が1億人を突破
交通事故死者が戦後最多となり「交通戦争」が流行語に
戦後初の赤字国債発行 |
| 1973 |
製販分離へセイカ商事を設立
1973(昭和48)年9月25日、当社は営業部門を分離して「セイカ商事株式会社」を設立した(現セイカ(株)、資本金1,000万円、代表取締役社長 竹田實)。
これによって和歌山精化工業の「製」と「販」は分離されたことになるが、グループ内で製造と販売を有機的に結び付け、統合的に展開させるという意味では、実質的には「製販一体」と呼んでいいものであった。それは時代のニーズあるいはユーザーからの要望に的確に応えられるような研究開発、新分野をみつめた製品開発に集中できる体制を整えることができたからである。
次代をにらんだ業容の拡大、つまり「セイカグループ」の歩みはこの時代から始まったと言える。 |
セイカ商事本社(1970年代後半) |
ベトナム平和協定調印、ベトナム戦争終わる
円が変動相場制へ移行
第4次中東戦争勃発
原油価格30%値上げ、石油危機始まる。各地で買占め騒ぎ |
| 1983 |
精伸興業を設立
1977年8月、和歌山市福島にあった紡績工場跡地を購入し、セイカ商事紀陽倉庫を建設した。
もともと紀陽倉庫は事故やトラブルなどの発生に備え、危険分散の狙いで開設したものだったが、生産量の増大や製造品目の多様化にともなって一時保管という単なる倉庫機能をこえて、積極的な物流の拠点として位置づけることが避けられないものになってきた。
そこで物流部門を担う業務ポジションを明確にするために、1983(昭和58)年4月にセイカ商事紀陽倉庫を分離独立させて「精伸興業株式会社」を設立した。
これによって染・顔料中間体、樹脂硬化剤の研究開発と製造を行う和歌山精化工業、それらの製品を販売するセイカ商事、製造全品目の在庫管理および調整と市場へ向けた流通機能を果たす精伸興業という、製造-販売-物流という一貫ラインが生まれた。 |
できあがった製品を倉庫へ移動 |
中国自動車道が全通(吹田~下関)
千葉県浦安市に東京ディズニーランド開園 |
| 1987 |
海南市に新工場を建設
1987(昭和62)年3月、福岡県大牟田市にある大牟田工場(1982年竣工)を和歌山市に隣接した海南市に「セイカ商事海南工場」として移転した。
海南工場に隣接する海南港には船が横づけできるバースがあり、接岸した船から原料をパイプで直接工場内のタンクに貯蔵できるので、荷役業務の効率は大幅に向上した。
1990年7月には高機能性ポリマー原料であるDPEを増産するための製造プラントの稼働を開始し、海南工場は高機能性ポリマー原料の生産拠点として急速に重要度を高めていった。 |
建設中の海南工場(1986年) |
日本電信電話(NTT)株が上場
国鉄分割・民営化でJR発足
GNPが1万8,100ドルと世界一に
基準地価都市部で暴騰
ニューヨーク株式暴落、ブラックマンデー |
| 1995 |
海外における販売拠点の確立
世界最大の市場であるアメリカで着実に販路を拡大してきた当社は、1985(昭和60)年12月に樹脂硬化剤であるビスアミンの米国の販売拠点としてPDS Inc.を設立。
また、1995(平成7)年8月にOmniSpecialty Corp.をアメリカ東部にあるニュージャージー州ティーネックに設立し、染・顔料中間体、高機能性ポリマー原料などの当社製品をアメリカ市場に送り込むことになった。
その後、1998(平成10)年1月にはPDS社を発展的に解消し、OmniSpecialty社で樹脂硬化剤や高機能性ポリマー原料の販売も集約した体制を作った。 |
設立当時のOmniSpecialty Corp |
関西国際空港が開港
阪神・淡路大震災発生、死者6,400人
1ドル=79円75銭の円最高値
製造物責任(PL)法施行
Windows95発売、インターネット急速に普及 |